
瞑想と聞いて、「考えないこと」「無心になること」を思い浮かべる方は多いかもしれません。そして実際に座ってみると、考えないようにするほど雑念が湧いてきて、うまくいかなかった経験を持つ方もいるのではないでしょうか。
この記事は、瞑想を一度試して挫折した方、あるいはこれから始めようとして「無心になれる気がしない」と感じている方に向けて書いています。
瞑想は「徹底的に考える」時間
結論から書きます。
瞑想は「考えないこと」ではない、という見方があります。むしろ徹底的に考える時間である、と捉えることもできます。
私自身、最初は「考えない」というアプローチで瞑想を試みていました。けれども「考えないようにしなきゃいけない」と意識すればするほど、雑念が湧いてきました。「考えない」を目的にした瞬間に、その目的を考えてしまう。瞑想から遠ざかる構造に、ある時気づきました。
そこで逆に、「徹底的に考えてみよう」と切り替えてみたのです。すると静寂が訪れ、一点に集中できる感覚や、全体を見渡せる感覚が、少しずつ訪れるようになりました。「考えない」を手放した方が、瞑想がより深くなったというのが、私の体感です。
「無心」を目指す瞑想を全否定したいわけではありません。伝統の中にもさまざまな流派があり、無心を中核に置く教えもあります。ここで書いているのは、あくまで一つの見方です。けれども、「考えない」でつまずいてきた方にとっては、この見方が次の一歩を渡してくれるかもしれません。
「考える」と「妄想」を混同しない
ここで一番大事になるのが、「考える」と「妄想」の区別です。
両方とも頭の中で起きていることなので、混同されやすいのですが、向かう方向はまったく違います。
- 妄想・雑念: 「あれをしなきゃ」「あの返事はどうしよう」「外で鳥が鳴いた」のように、表層を泡立つように流れていく思考
- 考える(瞑想で言う考える): 徹底的に自己を探求する行為。自分自身を考え、見つけてあげる行為

妄想は手放す対象です。考えることは、深める対象です。
「徹底的に考える」と書くと、厳しい修行や難しい哲学を想像するかもしれません。けれども、ここで言う「考える」は、評価したり結論を出したりすることではありません。今日の自分の身体はどんな状態か、最近何がひっかかっているのか、なぜ今ここに座っているのか。そういった問いを、急がずに自分の中に置いておくことに近いものです。
妄想が湧いてきた時に、それを叱る必要はありません。「あ、これは妄想だな」と気づいて、ふたたび考える方向に戻っていく。その行き来そのものが、瞑想の中身だと言ってもいいかもしれません。
瞑想の3層構造
私の中で、瞑想は3つの層に分かれて起きているように感じています。
- 考える — 徹底的に自分自身を考える
- 受け入れる — 出てきたものを、評価せずに受け入れる
- 全体で体感する — 受け入れたものを、身体全体で感じる
この3つが一連の流れとして訪れる時間が、私にとっての瞑想です。
順番通りに進むこともあれば、行ったり来たりすることもあります。考えている途中で受け入れに変わったり、体感している最中にまた別の考えが浮かんできたり。きれいに段階を踏まなくても構いません。3層が同じ時間の中で重なっている、と捉えた方が実情に近いかもしれません。
大事なのは、「考えること」が瞑想を遠ざける敵ではなく、瞑想の入り口になりうるという視点です。
「瞑想をする」という感覚を捨てる
もう一つ、私が大切にしている見方があります。
瞑想する時に、「瞑想をする」という感覚そのものを捨てる、という見方です。
「瞑想をしている自分」を意識した瞬間に、自分を外から眺める視点が生まれます。それは悪いことではないのですが、その視点に居続けると、本当の自分から少し離れてしまうように感じます。
そうではなく、ただ自分を待ってあげる。ひたすら、優しく、待ってあげる時間。本当の自分を迎え入れる時間。そう捉えると、瞑想の表情が少し変わってきます。
「考える」という言葉から想像される厳しさや、修行的なイメージとは違って、私にとっての瞑想は世界一優しい時間に近いものです。徹底的に考えることと、優しさは矛盾しません。むしろ重なります。
考え、受け入れ、全体で体感する。その流れを、自分のために用意してあげる時間。人生で一番優しい時間というのが、私の瞑想のスタイルです。
ヨガの瞑想と、伝統的な背景
瞑想は、ヨガの長い歴史の中に位置づけられている行為でもあります。
ヨガの歴史は2500年以上にわたると言われています。サンスクリット語で「ディヤーナ」と呼ばれる瞑想は、ヨガの八支則(アシュタンガ)の第七支に位置づけられているとされ、姿勢(アーサナ)や呼吸法(プラーナーヤーマ)を経て辿り着く段階として記述されてきました。
ここで「徹底的に考える」と書いてきたものは、伝統的な用語で言う自己探求(アートマヴィチャーラ)に近い性質を持っています。諸説あるテーマなので断定はできませんが、自己を見つめる行為を瞑想の中核に置く流れは、ヨガの伝統の中に確かに存在しています。
マインドフルネスや禅の瞑想と重なる部分も多くありますが、ヨガの瞑想には「自己の探求」という独自の軸があると言われています。違いを厳密に分けるよりは、それぞれの伝統が瞑想という行為をどう描いてきたかを知ることが、自分のスタイルを見つける助けになるかもしれません。
伝統に敬意を払いつつ、自分なりの入り口を見つけることは、矛盾するものではありません。長い歴史の中で多くの人が試行錯誤してきたからこそ、現代に生きる私たちにも、いくつかの選び方が残されているとも言えます。
自宅で試す、最初の一歩

ここまで読んで、試してみたいと思った方のために、自宅でできる最初の一歩を書いておきます。
- 静かな場所と長時間は、必須ではありません。最初は5分でも構いません。騒がしい部屋でも構いません
- 椅子に座っても、床に座っても大丈夫です。背中が無理なく伸びる姿勢を選びます
- 目は閉じても、半分開けて床の一点に視線を落としても構いません
- ゆっくり息を吐ききるところから始めます
- 「考えないようにしよう」とはしません。今日の自分の身体の状態、最近気になっていること、何でも構いません。自分のことを、急がずに考えてみます
- 妄想が湧いたら、「あ、これは妄想だな」と気づいて、ふたたび自分を考える方向に戻ります
- 終わる時間が来たら、ゆっくり目を開けます
うまくできた・できなかったという評価は、しなくて大丈夫です。座って、考えて、受け入れて、体感する。その時間を自分に渡せただけで、十分です。
最初のうちは、5分でも長く感じられるかもしれません。逆に、考えていたら時間が過ぎていた、ということもあります。どちらも瞑想の表情の一つです。続けてみると、自分にとってちょうどよい長さが少しずつ見えてきます。
瞑想を、もう一度始めてみるなら
「考えないこと」でつまずいた経験のある方にとって、「徹底的に考える」という入り口は、瞑想とのつきあい方を少し変えるきっかけになるかもしれません。無心を目指して挫折するよりも、自分自身を考えてみる時間として捉え直す方が、ずっと自然に続けられることがあります。
ここまで読んで、家で静かに自分と向き合う時間を持ちたいと感じた方もいるかもしれません。
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